刑事

蒼き湖の涙:事件5

涙を流す彼女が落ち着くのに、そう時間は掛からなかった。

そして、うつむきつつも少しずつ『河上啓一』について話し始めた。

「……2年ほど前になります。河上さんとは同じ職場で働いていたんです……私、何ていうか不器用で、仕事の要領が悪くて上司や同僚に怒られてばかりで……そんな私を励ましてくれたのが河上さんでした。彼、ものすごく面白い人なんですよ、落ち込んでる私を笑わせようとモノマネしたり、変な歌を歌ったり……いつのまにか、私、笑ってたんですよね、彼と一緒に」

「そうでしたか、いい人だったんですね、河上さんは。わたしなんかは、マネ出来ないですよ」

「僕、モノマネ得意ですよ」

そう言って、おどけて見せる早見に、彼女は口元を少し緩ませて、また話し始めた。

「……それで、その……彼に惹かれた、というか……その……」

「お付き合いが始まったと」

「ええ……」

「それから、1年ほど経って、彼が仕事をやめると言ったんです」

「何か不都合があったんですか」

「いえ、夢を実現するんだって……」

少し瞳が潤んだかに見えたが、彼女は続けた。

「彼、ちいさなパン屋をするのが夢だったんです。仕事が終わるとその為の勉強をしたり、パンを作ったりしてました。私もその話は聞いていましたし、いよいよ、その時が来たんだなと思ったんです」

「一ノ宮さんは、どうされたんですか」

「その頃私は、彼とは一蓮托生で、ついて行こうと決めてましたし、彼も合意してくれたんで、一緒に会社をやめる事にしたんです」

彼女たちはその後、店の準備に追われ、ようやく開店に漕ぎ着けたそうだ。

そして店も軌道に乗り始めた頃に一人の男が現れたと言う。

「その男は、ほぼ毎日、店に来るようになりました。私、気になって、彼に聞いたんです。あの男は誰だって」

うなずきながら、話を聞いていた早見が割って入った。

「それが、坂下昭夫ですね」

彼女、一ノ宮真紀は目をまるくして言った。

「誰ですか? その人」

意外な反応が返ってきたので、早見が目をまるくした。

「男性は、若宮と名乗ってました。若宮は、河上さんから、お金を借りていたみたいで、もう少し待ってくれみたいな話をしていました」

「金銭トラブルが、あったと」

「ええ、そうだと思います。その若宮と一緒に出かけて来ると言ったきり、彼は帰ってこなかったんです」

河上啓一が、彼女の前から姿を消して、事故にあうまでに、1週間ほどの時間が空いている。彼はどこで何をしていたのか?

「当然、私は彼を捜そうとしました。でも、なかなか、思うようにいかなくて。それで警察に行こうと思った時でした。お店に脅迫じみた電話があったんです。

『死にたくなかったら河上を捜すな』

……と」

「それでも私、捜そうとしたんです。そうしたら、今度は誰かにつけられたり、一度は車にはねられそうになって……ちょっと怖くなってしまって」

「そんな事があったんですね。今日まで、余程、耐えてこられたんですね」

コクリとうなずく彼女。

「河上さんの事故の件は」

「彼が事故にあった事は署長さんから聞きました……」

彼女はしばらくの間、自分の身を案じたらしいが、河上啓一の行方不明が単なる失踪とは違い、確実に犯罪に巻き込まれたと証言する為に、危険をかえりみず、警察に来たのだった。

そして、偶然か必然か、河上啓一の事故を知る事となった。

「刑事さん、彼の無念を晴らしてください。私、事故だなんて考えられません。あれは何か犯罪に巻き込まれたんです。私への脅迫が、その証拠です。絶対、そうです」

温和に思えた彼女は、不意に怒りとも取れる強い口調で五十鈴川に詰め寄った。

「一ノ宮さん、きっと解決させますよ、この事件」

「お願いします……」

少し、落ち着きを取り戻し、一ノ宮真紀は深々と頭を下げた。五十鈴川たちには、その姿が何故か誇らしげに見えた。

調書を全て終えたわけではなかったが、彼女にも疲れが見えた為、日を改めて話を聞く事となった。

「すずさん、彼女、坂下昭夫を知らないと言っていましたね」

「ああ、嘘をついているとも思えないし、つく理由が今のところ、無いしな。それよりお前、軽率だぞ、事件に関わる人物の名前を言ってしまうなんて」

「すみません。ちょっと先走りました」

事件は、若宮という新たな人物が加わり、絡み合った糸をほぐすどころか、又、強固に絡まってしまったようだ。

事件6へ続く