涙を流す彼女が落ち着くのに、そう時間は掛からなかった。
そして、うつむきつつも少しずつ『河上啓一』について話し始めた。
「……2年ほど前になります。河上さんとは同じ職場で働いていたんです……私、何ていうか不器用で、仕事の要領が悪くて上司や同僚に怒られてばかりで……そんな私を励ましてくれたのが河上さんでした。彼、ものすごく面白い人なんですよ、落ち込んでる私を笑わせようとモノマネしたり、変な歌を歌ったり……いつのまにか、私、笑ってたんですよね、彼と一緒に」
「そうでしたか、いい人だったんですね、河上さんは。わたしなんかは、マネ出来ないですよ」
「僕、モノマネ得意ですよ」
そう言って、おどけて見せる早見に、彼女は口元を少し緩ませて、また話し始めた。
「……それで、その……彼に惹かれた、というか……その……」
「お付き合いが始まったと」
「ええ……」
「それから、1年ほど経って、彼が仕事をやめると言ったんです」
「何か不都合があったんですか」
「いえ、夢を実現するんだって……」
少し瞳が潤んだかに見えたが、彼女は続けた。
「彼、ちいさなパン屋をするのが夢だったんです。仕事が終わるとその為の勉強をしたり、パンを作ったりしてました。私もその話は聞いていましたし、いよいよ、その時が来たんだなと思ったんです」
「一ノ宮さんは、どうされたんですか」
「その頃私は、彼とは一蓮托生で、ついて行こうと決めてましたし、彼も合意してくれたんで、一緒に会社をやめる事にしたんです」
彼女たちはその後、店の準備に追われ、ようやく開店に漕ぎ着けたそうだ。
そして店も軌道に乗り始めた頃に一人の男が現れたと言う。
「その男は、ほぼ毎日、店に来るようになりました。私、気になって、彼に聞いたんです。あの男は誰だって」
うなずきながら、話を聞いていた早見が割って入った。
「それが、坂下昭夫ですね」
彼女、一ノ宮真紀は目をまるくして言った。
「誰ですか? その人」
意外な反応が返ってきたので、早見が目をまるくした。
「男性は、若宮と名乗ってました。若宮は、河上さんから、お金を借りていたみたいで、もう少し待ってくれみたいな話をしていました」
「金銭トラブルが、あったと」
「ええ、そうだと思います。その若宮と一緒に出かけて来ると言ったきり、彼は帰ってこなかったんです」
河上啓一が、彼女の前から姿を消して、事故にあうまでに、1週間ほどの時間が空いている。彼はどこで何をしていたのか?
「当然、私は彼を捜そうとしました。でも、なかなか、思うようにいかなくて。それで警察に行こうと思った時でした。お店に脅迫じみた電話があったんです。
『死にたくなかったら河上を捜すな』
……と」
「それでも私、捜そうとしたんです。そうしたら、今度は誰かにつけられたり、一度は車にはねられそうになって……ちょっと怖くなってしまって」
「そんな事があったんですね。今日まで、余程、耐えてこられたんですね」
コクリとうなずく彼女。
「河上さんの事故の件は」
「彼が事故にあった事は署長さんから聞きました……」
彼女はしばらくの間、自分の身を案じたらしいが、河上啓一の行方不明が単なる失踪とは違い、確実に犯罪に巻き込まれたと証言する為に、危険をかえりみず、警察に来たのだった。
そして、偶然か必然か、河上啓一の事故を知る事となった。
「刑事さん、彼の無念を晴らしてください。私、事故だなんて考えられません。あれは何か犯罪に巻き込まれたんです。私への脅迫が、その証拠です。絶対、そうです」
温和に思えた彼女は、不意に怒りとも取れる強い口調で五十鈴川に詰め寄った。
「一ノ宮さん、きっと解決させますよ、この事件」
「お願いします……」
少し、落ち着きを取り戻し、一ノ宮真紀は深々と頭を下げた。五十鈴川たちには、その姿が何故か誇らしげに見えた。
調書を全て終えたわけではなかったが、彼女にも疲れが見えた為、日を改めて話を聞く事となった。
「すずさん、彼女、坂下昭夫を知らないと言っていましたね」
「ああ、嘘をついているとも思えないし、つく理由が今のところ、無いしな。それよりお前、軽率だぞ、事件に関わる人物の名前を言ってしまうなんて」
「すみません。ちょっと先走りました」
事件は、若宮という新たな人物が加わり、絡み合った糸をほぐすどころか、又、強固に絡まってしまったようだ。